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大阪高等裁判所 昭和33年(う)777号 判決

主文

検察官の原判決中無罪の部分に対する本件控訴を棄却する。

原判決中有罪の部分を破棄する。

被告人三上隆を罰金三、〇〇〇円に処する。

同被告人が右罰金を完納しないときは二五〇円を一日に換算した期間労役場に留置する。

同被告人に対しこの判決確定の日から一年間右刑の執行を猶予する。

本件公訴事実中住居侵入(不退去)の点につき被告人両名は無罪。

理由

本件控訴趣意は、いずれも本件記録に綴つてある被告人両名について弁護人能勢克男の控訴趣意書及び弁護人毛利与一、同能勢克男、同林逸郎、同菅原昌人、同佐伯千仭、同佐々木哲蔵連名の控訴趣意書、被告人三上隆について弁護人林逸郎、同佐々木哲蔵、同毛利与一連名の控訴趣意書及び弁護人林逸郎の控訴趣意書並びに京都地方検察庁検事正代理次席検事山田四郎の控訴趣意書に各記載の通りであり、検察官の控訴趣意に対する被告人両名のための答弁は弁護人能勢克男、同佐伯千仭、同菅原昌人、同佐々木哲蔵連名の答弁書に記載の通りであるから、いずれもこれを引用する。

弁護人等の各控訴趣意中、毛利与一外五弁護人連名の控訴趣意第三点を除くその余の各控訴趣意について。

各論旨は、原判決認定の第一事実即ち被告人三上隆が昭和三〇年六月三日午後二時三〇分頃京都大学本館北側植え込みの西北角附近で、西方から同大学総長滝川幸辰の右側に身体を激しく一回ぶつつけ、その際足で同総長の右脚下腿部に全治約三週間を必要とする右脚下腿部打撲症を与えたとの事実の認定につき、判決に影響を及ぼすべき事実誤認採証法則違反、証拠によらずして有罪を認定した違法がある、というのである。

よつて本件記録を精査し原審及び当審において取調べた総べての証拠によつて検討する。原判決は判示第一の事実を認めた証拠の説明をなすに当り(1)被告人三上が滝川幸辰に対し原判示の如き暴行傷害を加えた点を除くその余の事実(2)滝川幸辰の被つた傷害の事実(3)滝川幸辰の受けた右傷害が原判示の如く被告人三上の暴行によるものであること、の三つに分けてそれぞれ幾つもの証拠を示し、その各証拠の殆んど総べてにつきその内容をも掲げているのであつて、弁護人等の争つているのは、主として右(2)(3)についての証拠に関してであり、(3)については殊に原審における被害者京都大学総長滝川幸辰、同大学秘書室主任西村源次の各証言の信用性及び同大学々生部学生課教務係宮本了邦の証言に関してである。

そこで先ず滝川幸辰の原審における証言について検討すると、なるほど原判決が証拠として挙示するように、証人滝川幸辰の原審第二五回公判における供述中には「自分は昭和三〇年六月三日の本件当時には既に被告人三上を知つていた。本件当時被告人両名のほかは大して暴行しなかつたが、二人に限つて隙をねらつて、かかつて来た。本館建物西北の曲り角附近では特にはげしく、被告人三上はどちらの足か見ていないので分らないが、西から私の右側から蹴つた。その時私はよろついたが努力して転ばないようにした」旨(記録二一六〇―二一六六丁)の記載があり、同証人の原審第二八回公判における供述中には「本件当時本館西北角の辺で二回痛いと思つた。その一つは足を蹴られたと思つた時で、被告人三上はその時一番近くに接近していた。蹴られたので見たら被告人三上が居たと思う。同人は来るとすぐ離れるから身体をくつ付けているわけではない。がんとやられて見たら被告人三上であつた。その時は他の人が附近に接近していないから、同人以外の人が蹴る余地はない。」旨(二六八一―二六八二丁)の記載があるが、右各供述記載殊に同証人が被告人三上に足を蹴られ、その時痛みを感じたとの部分は次のような理由からたやすくそのままに信用することはできないのである。即ち同証人は一方では右のように、被告人三上に足を蹴られたと思つた時に痛いと思つた旨供述しているが、(なお弁護人等から刑事訴訟法第三二八条により提出された滝川幸辰の司法警察員に対する昭和三〇年六月四日付供述調書の抄本には「三上が突然左足先で私の右足下腿部の右側を蹴り上げた私はひどい痛みを感じ瞬間よろよろとした」旨の供述記載がある。)一方では「始めは感じなかつたが、総長室に帰つた時に西村秘書から怪我はなかつたかと聞かれ、そう言われると痛いので靴下を脱いだところ、右足のすねの下の外側が内出血して紫色になつていた」旨(原審第二五回公判二一七一―二一七二丁)或いは「自分が始めて足の痛みを感じたのは、その日総長室に帰つてからである。蹴られた瞬間にも痛かつたという感じがあつたが、その時は夢中だつたので本当に痛いと思つたのは総長室に帰つてからである。」旨(当審第六回公判)を供述しており、果して同証人が被告人三上に足を蹴られたというその時から既に痛みを感じていたかどうかは甚だ疑わしく、又同証人は原審第二五回公判において検察官の「当時三上被告人はどのような暴行をしたか」との問に対して「それは事の性質上三上と伊多波とを合わさなければ暴行の事実がはつきりしないと思う」旨答え、それに続いて「始め私は渡り廊下から出た時に本館西出口の方から三上が来たのに気づいた。その時何かネクタイをつかまえたり色々なことをやつた。そこを守衛などが取囲みに来たが、その時に見ると伊多波も居た。そしてこの二人以外の者はそう大して体をつかまえて何かするということはしなかつたが、二人に限つて隙を狙つてかかつて来た。」旨(以上二一六四丁)供述しているほか同じ公判中でも「断続的に自分の身辺に寄つて来る学生は五、六人ではなく、だんだん増えて来たが、主に伊多波と三上が寄つて来た」(二二一一丁)とか「とにかく一〇数名の学生がおつてその中でしぶとく突つかかつて来たのは三上と伊多波の二人である。それは最初から、南に向つて本館に近づいて行くまでその都度どこかでやつていた。二人が主にやつたので他の学生はあまりやらなかつた。」「胸倉をつかまえられたことは最初階段を下りてからずつと、一〇分か一五分か分らぬがその間に数度あり、それも主に三上と伊多波である。」(以上二二四九―二二五〇丁)とか或いは「六月三日の学生との面会の時には学生代表の中に、三上も伊多波も眼鏡をかけた大柄の婦人もいなかつたので、その日は大物が皆出ないのだなと思い、それで何か計画があるなと思つた。そうすると出た途端に三上が来たから、なるほど大物が隠れていてあとで来るというこういう計画だと思つた。」(二二八三丁)等諸所において、被告人三上・同伊多波の両名が本件において特に積極的に行動していたことをことさらに強調しようとする傾向が見られ、しかも同証人の証言は種々変転し、例えば同証人が被告人三上に足を蹴られたという時期と被告人伊多波に脇腹を殴られた時期の前後についても、原審第二五回公判においては或いは被告人三上に蹴られた直後に被告人伊多波に殴られたように述べたり、(二一六五―二一六七丁)或いは両者は接着しており殆んど同時でどちらが先であるか分らないように述べたり(二二四七丁及び二二六九―二二七〇丁)しながら、当審第六回公判においては「伊多波が殴つてその後三上が蹴つた。西側の角を曲る直前に蹴られたのだから、突かれたのはその直前か余程以前かは分らぬがそれより前であることは間違いない。一審でどう証言したかは知らぬが始めから蹴られた方が後だという頭である。」旨断言しているように、果していずれが真実であるのかその真相を把握しがたく、以上の諸点を他の諸証拠とも綜合比照して考察すると、滝川証人の本件に関する記憶は、被告人両名が本事件の主謀者であるとの先入観に基いて論理的にメモづけされたか又はかかる先入観によつて妨害即ち遡向抑制されていて、そのような不正確な記憶に従つて証言がなされたものと認められるのであつて、同証人の証言と客観的事実との一致については大いに疑問があり、その証言中の「三上が右側から蹴つた。」とか「蹴られたので見たら三上が一番近くに接近していたから三上が蹴つたのに間違いはない。」とか「蹴られた時に痛いと思つた。」との趣旨の各供述部分は容易に信用しがたいのである。

次に西村源次の原審における証言について検討すると、原判決が証拠として挙示している原審第二〇回公判調書中同証人の「本館建物西北角から二米位北の所で被告人三上が総長の斜前の方から激しく近寄りぶつかつた」旨の供述記載部分(一五六一―一五六二丁)に関しては、同証人は原審第二一回公判においてもこれと同趣旨の供述(一七三五―一七三八丁)をしており、又当時被告人三上が何回か総長にぶつかつて行き、その最後の時には総長がよろよろとしたとのことは、弁護人等並びに検察官からいずれも刑事訴訟法第三二八条により提出された西村源次の司法警察員に対する昭和三〇年六月六日付供述調書≪中略≫においても同証人が一貫して供述している所であつて、前示原判決挙示にかかる供述部分は同証人の当審第四回、第五回各公判における供述内容≪中略≫その他の諸証拠と対比検討しても充分信用しうるものと考えられる。弁護人能勢克男の控訴趣意第一(ホ)のように西村証人は本件の被害者滝川総長の秘書であつたことや、右両者の間においてその供述内容について予めメモ(要領書)の授受が行われたとのことは、右西村証人の証言の信憑性を全面的に否定するものとはいえない。

次に原審証人宮本了邦の証言について見るに、原審第一一回公判調書における同証人の供述記載中、原判決が証拠として挙示している「被告人三上が総長の右前からぶつかるのを、総長の斜め後から見た」との部分(八四二―八四五丁)はこれをその余の供述部分と綜合して見ると、原判決が判示する「総長等が本館建物北側の植込の西北角附近まで来た時に、被告人三上が西方から総長の右側に身体を激しく一回ぶつつけた」という時期よりは若干以前の時期の状況について供述しているものと認められ、且つその際被告人三上が滝川総長にぶつかつたのは、守衛等周囲の者の抵抗を排除して同総長に近づこうとしたためその勢が余つて総長にぶつかつたものとも考えられ、故意にぶつかつたものかどうかも明らかでないから、これをもつて原判示第一の「被告人三上が滝川総長に体を激しく一回ぶつつけた」との事実の直接の証拠とはなし難いけれども、右宮本証人の証言はその内容を仔細に検討しても概ね措信しうるものであつて特にその信用性を否定すべき理由は発見し得ない。

以上のようなわけで、証人滝川幸辰の原審証言には信用し難いものがあるにしても、証人西村源次、同宮本了邦の各原審証言は概ね措信しうるものであり、右滝川証人の証言を除く原判決挙示の各証拠、殊に原審第二〇回公判調書中の証人西村源次の供述記載によれば、被告人三上が原判決認定のように滝川総長に身体を激しく一回ぶつつけた暴行の事実を認めるのに十分であつて、能勢弁護人の控訴趣意第一(イ)所論の、被告人三上の「当時自分が滝川総長の身体に接触したことは一度もなく、総長から一メートル半以内位の距離に近接したこともない」旨の供述はたやすく措信し難く、又同控訴趣意第一(ハ)所論の被告人伊多波の供述は右認定を覆すに足りない。又証人岸野美一、同伊藤重吉、同石田勝久等の供述が能勢弁護人の控訴趣意第一(ロ)及び毛利弁護人外五弁護人の控訴趣意第二点所論のように同人等が当時滝川総長のすぐ近くに附き添うていながら被告人三上の同総長に対する右暴行を見ていないということは、その当時同総長を中に警備員、大学職員、学生二〇乃至三〇名の一団がもみ合い混乱状態にあつたことを考えるならば、何等異とするに足りないのであつて、このことは右認定に影響を及ぼすものではない。しかし被告人三上が滝川総長の右脚を蹴り同総長の右脚下腿部に打撲症を与えたという点については、同総長がその頃原判示のような傷害を受けたことは明らかであるにしても、同総長の原審及び当審におけるこの点に関する証言の措信し難いことは前示の通りであり、他に同被告人が同総長の右脚に傷害を与えるような暴行を加えたことを認めるに足る証拠は認められない。よつて林弁護人の控訴趣意第二点の本件滝川総長の受けた右脚の傷について原判決には理由にくいちがいがあり、従つて重大な実事誤認があるとの論旨については判断するまでもなく、原判決が被告人三上が滝川総長の右側に一回身体を激しくぶつつけて暴行したとの事実のほかに同被告人の足で同総長の右脚を蹴つてその部位に全治三週間を要する打撲症を与えたと認定したのは事実の誤認であり、この誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、この点において論旨は理由がある。

弁護人毛利与一外五弁護人の控訴趣意第三点について。

論旨の重点は、原判決はその第二事実において被告人両名の不退却罪を認定しているが、この認定には判決に影響を及ぼすべき事実誤認がある、原判示京都大学々生部のなした「午後九時二〇分までに解散せよ、解散しなければ適当な措置をとる」とのいわゆる最後通達は、「退去」といわず「解散」という字句を用いている点から見ても、また同大学が従来から「退去」という字句と「解散」という字句との使い分けをしていたことから考えても、右通達は、原判決のいうように大学本館建物から外に退去せよとの要求とは認め難く、一方被告人等学生側においてもそれをかかる退去要求とは受取つてはいなかつたのであるから、原判決が被告人両名は退去の要求を受けたのに拘らず、大学本館から退去しなかつたと認定したのは、重大な事実の誤認であるというのである。

よつて原審及び当審において取調べた総べての証拠を検討するに、刑法第一三〇条の不退去罪の成立するためには、その住居・建物等の管理者又は看守者の意思に反してその住居・建物等内に留まつただけでは足りず、それらの者の不退去者に対する退去要求があつたことを要するのであつて、管理者等が内心その退去を希望していたとしても、これを要求しない場合には、不退去者において、それらの管理者等がかかる希望、期待を持つていて、不退去者がその場に留まることは管理者等の意思に反することを推知しながら、依然その建物等内に留まつたとしても不退去罪は成立しないものと解すべきところ、原審第二七回公判調書における証人京都大学々生部長田中周友の供述記載及び当審第三回公判調書における同証人の供述記載等によれば、所論学生部の最後通達が「解散せよ」とあつて「退去せよ」との文言を使わなかつたのは、学生部長としては、本件の場合解散せよと言えば退去以外に解散する方法はないと考えて、露骨な言葉を避けたものと考えられること、また同通達に「適当な措置をとる」とは警察官の出動要請を予想していたことが認められるにしても、同通達の文言はこれを以て不退去罪の要件たる退去の要求とは到底解することはできないのである。論旨もいうように解散とは、集会や結社の組織を解くことであり、本件の場合には京都大学本館東階段附近に集つた学生の集団の解体を意味するものと解せられ、「退去」(ある場所から退き去る)とは異なる観念であるから、前示最後通達が殊更に「退去」といわず「解散」といつたのは、学生達の集団の解体を要求したもので、学生達が本館から退去するということをば直接要求したものとは解し難く、大学側としては、解散すればその結果として本館から退去することを希望乃至期待していたに過ぎないものと解せられるのみならず、前示集団が完全に解散して団結が解け、団体行動が中止せられるならば、本館建物内に留まる学生が若干あつたとしても、滝川総長が同館二階の総長室から出て帰宅することには差し支えなかつた筈であり、又反面たとえ学生達が本館建物外に退去したとしても、なお団結を堅くし、総長との会見を要求して総長の帰宅を阻止する態度に出るならば、総長を安全に帰宅させようとする大学側の目的は達せられなかつたのであつて、大学側の真の要求は前示学生の集団を解体即ち文字通り解散させて団体行動を中止させるにあつたものと認めなければならないのである。また同通達にいう「適当な措置をとる」とのことは「解散しない場合には不法集会と認め適当な措置をとる」という文言に徴しても、必ずしも警察官の出動要請を意味するものとは解せられないのみならず、たとえそれが警察官出動要請の意味を含んでいたとしても、その場合の警察官の出動を要請するということは、解散しない場合には不退去罪が成立するから実力をもつて強制的に退去させるために警察官の出動を要請するという趣旨には直ちにならないのである。被告人等学生達が前示通達を受けたため、同日午後九時二〇分までに学生集団を解散しなければ警察官の出動があるかも知れないと推測したとしても、右通達の文言から見れば、その出動は学生集団を解散させるための実力行使のためのものとして推測したものと考えられるのであつて、被告人等学生達が同通達を大学本館からの退去要求と理解したものとは容易に認められないのであり、むしろ被告人等はこれを文字通り解散即ち集団の解体、団体行動の中止の要求として受取つていたものと認められるのである。以上の理由により、原判決は多くの証拠を挙示してはいるけれども本件においては不退去罪の要件たる建物等の管理者又は看守者の退去要求があつたものとは認められないから、その余の所論につき判断するまでもなく、原判決が被告人両名が退去の要求を受けながら大学本館建物内から退去しなかつたとの事実を認定したのは事実誤認であり、この誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は理由がある。

検察官の控訴趣意中被告人両名を含む多数学生の大学職員五名に対する共同暴行の点についての事実誤認の論旨について論旨は本件公訴事実中の、被告人両名は昭和三〇年六月三日午後二時過ぎ頃大学本館建物と法経第四教室との中間空地附近で滝川総長を取囲み、多数学生と共同して、総長に随行していた杉岡道樹、石井完一郎、中村七郎、中島清、加藤信一に対し交々その身体を手で突き、引張り、又はこれに体当りし、或は蹴る等の暴行を加えた、との点につき、原判決は無罪の言渡をしているがこれは事実誤認に基くものである。被告人両名を含む学生一〇数名の大学職員杉岡道樹外四名に対する共同暴行は、通謀乃至謀議が成立したことはないにしても、共同暴行に対する学生相互間の意思の連絡が優に認められるので、押合い、もみ合いという積極的阻止行為による共同暴行の責任は免れないものと言わなければならない。更に進んで被告人両名を含む学生一〇数名が相互認識のもとに右の如き積極的阻止行為という共同暴行を犯したと認定し得る以上、押す、突く、引張る、体当りする、殴る、蹴る等の行為についても、又責任を負うべきであることは言を待たない。蓋しそれらの行為は、押合い、もみ合いという積極的阻止行為の一環として行われたものであり、一体として総合的に観察すべきものであつて押合い、もみ合うという積極的阻止行為から切離して、個々別々に観察すべきものではないからである、というのである。

よつて原審及び当審において取調べた総べての証拠を検討し、原判決を精査すると、原判決は公訴事実中の所論の点について無罪を言渡した理由として、本件の際滝川総長が大学本館西北口から出たが、学生達が、同総長を囲んだ守衛、大学職員等の囲みをかきわけ、総長の前に出て総長に話しかけようとし、守衛等はその学生等を押戻して排除し、学生等は更に総長に近寄ろうとする状態が繰り返されて、総長は北方に進むことができず、止むなく学生にもまれながら本館建物西北角を廻つて、その西口から同館に入つたのであるが、その間の時間は一〇分乃至一〇数分という短時間であり、それは偶発的な短時間の出来事であることは明らかであつて、学生相互の間に総長を守つていた大学職員杉岡道樹外四名に暴行する通謀ないし謀議が成立したことを認めるに足る証拠はなく更に暴行現場で右五名に対する個々の暴行行為について相互認識があつたとする証拠もない、従つて右五名が学生によつて暴行を受けたとしても、右は共同による暴行といえないから、その責任をその他の者に負わす訳にはいかないのであり、又被告人両名がそれぞれ単独で右五名に暴行を加えたと認めるに足る証拠もない、と説示している。思うに暴力行為等処罰に関する法律第一条第一項の数人共同による暴行の罪ないしは暴行の共同正犯が成立するためには、暴行の実行行為について、それが謀議であると或いは単なる共同認識であるとを問わず犯人相互の間に意思の連絡があることを必要とし、かかる意思の連絡が認められない場合には数人共同の暴行の罪ないしは暴行の共同正犯は成立せず、各人の行為を各別に評価の対象としなければならないことは明らかでありかかる相互間の意思連絡の存在は、状況証拠によるとその他の証拠によるとを問わず、積極的に立証せられなければならないことも論を待たないのである。所論は本件の場合被告人両名を含む学生一〇数名の間に共同暴行に対する意思連絡が優に認められるというのであるが、本件の場合滝川総長を中心とする大学の警備員、職員の一団と学生達との間にもみ合い状態が出現し、総長がその自由行動を阻止せられる結果となつたのは、学生達が総長に話しかけるため総長に近附こうとし、警備員、職員等は近寄らせまいとして、これを押返す等の排除行為に出たことによるのであつて、学生達はもみ合わんがためにもみ合つたものではなく、ひたすら総長に近附こうとしたために生じたもみ合いであり、その間幾分実力的行為に出る者があつたとしても、それは他の学生にとつては意図していなかつた偶発的、散発的なものであつたと認められるのであつて、所論の各証拠を以てしても被告人両名を含む学生達が共同して暴行するという共通の意思乃至意思連絡の下にあつたものとは認められないのである。所論のように本件当時杉岡道樹は学生に左首筋を手でつかんで左後方に引張られ、痛かつたので悲鳴をあげたこと、石井完一郎は学生のために服を引張られ、又振り廻していた誰かの手が同人の肩に当つたこと、中村七郎は学生に後から襟首をつかまれ約一米後方に引きずられたこと、加藤信一は学生から軽い意味で押す、突く、引張るというようなことをせられたことは認められるが、これらが被告人等の所為であると認めるべき証拠のないことは原判決のいう通りである。所論の中島清については、原審第一五回公判調書における同証人の供述記載中「私は西出口の北西約二、三米の所で学生達をはねのけて、その人垣の中に入るべく寄つたら、後から右腕の上膊部をつかまれて、一寸引戻された。その時私は乱暴は止せと言つて、顔を見たら、それは三上であつた。」(一一五四丁、一一五五丁)、「三上は腕を引張つていたわけではない。ばつとつかんで直ぐ放した。腕をつかんで逆に引戻したというように、私が反動をくらつて、たじたじとなつたということではない。」(一一八六丁、一一八七丁)との記載があり、これによつて被告人三上が本件当時中島清の右腕をつかんだことは認められるが(原判決がかかる事実も認められないとしたのは証拠の機能に対する価値判断を誤つている。)それが暴行に該当するものとは認め難いのである。以上の通りであつて原判決が被告人両名の多数学生との共同による杉岡道樹外四名に対する暴行の事実も、また被告人等の単独によるそれらの者に対する暴行の事実も認められないとしたのは正当であり、その点に事実の誤認はなく、論旨は理由がない。

検察官の控訴趣意中、被告人伊多波の滝川総長に対する傷害の点についての事実誤認の論旨について。

論旨は、本件公訴事実中、被告人伊多波は被告人三上外多数の学生と共に、大学本館と法経第四教室との間の中庭で総長を取囲み、総長に対し交々その身体を手で突き、引張り、又はこれに体当りし、或は蹴る等の暴行を加え、その際被告人伊多波は肩を激しく手で突き、被告人三上は数回体当りした上、足でその右脚を蹴り、被告人等その他の者等の右暴行の結果、総長に全治約二ヶ月を要する肋骨骨折及び全治三週間を要する右下腿部打撲傷を加えたとの点につき、原判決は被告人伊多波に対し無罪の言渡をしたが、これは事実誤認に基くものである。本件滝川総長に対する犯行は、前示杉岡道樹外四名に対する犯行と同様被告人両名を含む学生一〇名の共同暴行の共同認識ある犯行であるから、本件において同総長の受けた傷害に対しては被告人両名とも共同暴行による傷害の責任を負うべきことは当然であるのみならず、原判決は本件の際被告人三上の行為によつて滝川総長が右脚下腿部に打撲傷を負うたことを認めているのであり、原審における近藤鋭矢、滝川幸辰の各証言により本件の際滝川総長が前示肋骨骨折を生ずるような暴行を受けた事実が認められ、且つ原審における滝川幸辰、西村源次の証言によれば、その肋骨骨折の負傷は被告人伊多波の暴行によるものであることが認められる、というのである。

よつて証拠を検討するに、本件において被告人三上が滝川総長の右脚下腿部に打撲傷を与えた事実は、これを認めるに足るべき証拠なく、本件騒ぎの際における被告人両名を含む学生達の意思連絡の下における共同暴行が認められないことも既に述べたところである。そこで滝川総長、京都大学秘書室主任西村源次の各供述を検討する。先ず証人滝川幸辰の供述を見るに、原審第二五回公判調書における同証人の供述記載中には「例の六月三日当日ひどく髪を振り乱してかかつて来る人間がいた。その乱暴を働いたのは学生の一人であるが、その名前は知らなかつた。私は六月四日に京都を出て外国に行き、七月一七日に京都に帰り、一七日か一八日頃警察の人が来て、沢山写真を見せて、暴行を働いた学生はどれかというので、私はこれだと指摘したところ、それが伊多波であることを知つた」(二一六二―二一六三丁)「私の記憶しているのは、本館の北から南へ曲つておる角に近いところで、三上が私を蹴つたのです。私はよろついたです。私は転んだら踏みつぶされると思つて辛抱してできるだけの努力をして、転ばないようにしたんです。その前後にどかつと背中と申しますか、横腹を殴つた人間があります。それを見たら、それは伊多波なんです。」(二一六五丁)、「背中と言うか右脇腹の少し後のところを足で蹴られたのか、こういうふうに突いたのか(右手で突くような動作であり。)平手で突いたか、拳で突いたか、それはわかりませんが、とにかくそこを殴つているから見たら、それは伊多波なんです。」(二一六六―二一六七丁)との記載があり、当審第六回公判調書における滝川証人の供述記載中には「また植込のヤツデの附近で後からガンと手できたのか、足できたのか、突いたのか、蹴つたのか、ということをした人間がおつたんです。それを見たら伊多波だつたんです。」「右横少し後の腰にドンと当つた人間がおるんです。そのところに伊多波が立つておつたから、私は伊多波だと、もちろん伊多波という名前は知りませんが顔だけは見覚えがありました。」との記載があり、なお原審第二八回公判調書における滝川証人の供述記載中には「伊多波は後の方から来た。その時振り向いて見たのであるが、他の人はどこにおつたか知りませんが、見たら伊多波が一番近くにおつたので伊多波に違いないと私には見える位置におりました。他の人がやるような位置にいなかつたと記憶する。」(二六八二―二六八三丁)との記載がある。しかしこれらの供述記載を同証人のその余の供述記載その他の証拠と比較綜合して検討するならば、滝川証人の本件に関する記憶は、先に被告人三上の傷害の点について述べたと同様、被告人伊多波についても、同人が本事件の主謀者であるとの先入観のため歪みを受けていて、その不正確な記憶に基いて被告人伊多波についての各供述がなされたものと考えられるのであつて、それらの供述は必ずしもそのままには措信し難く、殊に原審第一〇回公判調書中証人岸野美一の供述として「本館建物の西北角の地点で一時停止状態になつたことがあり、その時に三上君が総長に何故許可していただけないのですかというようなことを言つていたが、それから間もなく再び移動が始まり、移動が始まつて三歩位行つた所で、私の右側にいた学生が総長の背中を手で殴つた。それは私よりも背の高い学生で顔も見たが忘れた。名前も覚えていない。……その附近では伊多波君は見かけなかつた。」(七五〇―七五二丁)「総長の殴られたのは右肩の下で右肩胛下部の少し下側、脊柱部の中間の右肩の線から二十糎位下側の部分である」(七五八丁)旨の供述記載があることに徴すると、前示滝川証人の各供述記載によつて直ちに被告人伊多波の滝川総長に対する暴行、従つてまた傷害の事実を認めることはできないのである。次に証人西村源次の供述を見るに、原審第二〇回公判調書における同証人の供述記載中には「この人はその時顔を覚えた位ですから非常に執拗に困つた人だというような記憶が非常にはつきりしていまして、これは少し前後するようですが、当日六時頃でしたが、庶務課長が私の室の方に参りました。その時偶々前方にその学生さんが立つていたわけです。その時に私は何を思つたのか庶務課長にこの学生、名前は知らないのですけれど、今日この人に非常にひどい目に遭うたのだと言つた」「そのときに私には非常にその人の顔を印象付けて覚えていた。」(一五六五丁)「その人の名前は、これは非常におくれて、色々の写真を検察庁でしたか、見せていただいて、この人ですよと言つたときに、伊多波だという名前だとわかつたと思う。」(一五六六丁)「本館建物の西北端から北方一〇米位の所で総長がもう殆んど南向きの状態になつた時、伊多波さんが総長の前の方へ近寄つて、右手で総長の右の方の肩を激しくぱつと押した。突いたという状態を記憶している。」(一五六七丁)、「総長は突かれて、よろめくというような感じでは適切ではありませんが、やや方向を変えたと、西の方へ廻つたと、何かそんな風な記憶があります。」(一五六八丁)との記載があり、原審第二一回公判調書における西村証人の供述記載中には「私は大体西向きで総長の後二米位東方にいたが、伊多波さんは総長の右側即ち西側から現われて右肩を突いた。その時伊多波さんと総長の間隔は約半米です。」「今のところ正直に言つて、総長が伊多波に突かれたのは左右いずれの肩であつたか自信がない。」旨(一七九六―一七九七丁)の記載があり、これら西村証人の供述記載によれば、被告人伊多波が本館建物西北端附近で、その詳細な状況は明らかでないにしても、滝川総長の肩を手で一回激しく突いて同総長に暴行を加えた事実を認めうるが如くである。しかし原審において弁護人から右西村証人の供述の証明力を争うために取調請求のあつた西村源次の司法警察員に対する供述調書三通及び検察官に対する供述調書五通(いずれも謄本)を精査すると、同人は司法警察員の取調に際しては、昭和三〇年六月六日附第二回目の供述調書において「三上の外にも総長の法学部の方へ行かれるのを阻止したものがあり、私は総長の襟もとを掴んだり強く押したりしたものが二、三人あつたように思いますが、この連中の行為は総長は帰宅して貰つては困ると思つてやつていたと思います。」(一六三一丁)と述べているのみであつて、被告人伊多波の行動に関する供述はどこにも見当らず、次に検察官の取調に際してはその第一回供述書(同年六月九日附)では「学生等は守衛や私達がとめる間隙を縫つて体当りをして突込んで総長に迫つて居りました。そのうち特にひどかつたのは三上君と頭髪を真中から分けて油もつけていなかつた長身やせ型の学生服を着た男で、この男は総長の肩に手を掛けました。」(一六四六丁)「私は直ぐ総長室に行き、先生お怪我はと聞きましたところ、一寸ここが痛いと言つて靴下を下げて右の下腿部を見せられ、これは三上に蹴り上げられたのだと言い、その際更に総長は、頭を真半分に分けた長身の学生服の男も仕方のない奴だ。肩を殴られた、と申されました。それで私は之は前述のように総長に二、三回も体当りした上肩に手を掛けた男のことをいうのだと思いました。」(一六五〇―一六五一丁)と述べ、同第二回供述調書(同月一六日附)では「当日三上君と共に特にひどく総長に近寄つた男で、私が物凄くよく記憶している長身やせ型の学生服を着た学生の男について、私は前回その男は頭髪を真中から分けて油もつけていなかつたと申しましたが、その後川端警察署で写真を見せられましたら頭髪は真中でなく七、三のようにも見受けられましたが、当日私の感じとしては真中から分けていたと思つていました。その学生が今度写真を見せられた時名前を聞いて伊多波君であることが判りました。……私と総長とが前回申したような状況で本部建物の西北端から西北方約十米位の地点へ来た時でした。その時総長はやや西南向きになつており、私は総長の東方約一米位の所に西向きになり歩いていましたら、総長の右斜前方に伊多波君が出て来て、総長との距離約半米位の所に近寄り右手を突出して口に何かわめきながら烈しく総長の左肩にその手を掛け、総長の進行を止めましたので総長は立止りました。」(一六五九―一六六一丁)と述べているのであるが、右西村源次の検察官に対する供述内容も、同人の原審公判廷における被告人伊多波が総長の肩を手で激しく押しそのため総長の体が西の方へ廻つたとの供述とはなお相当の隔たりがあり、また若し、総長の体が西の方へ廻る程はげしく押されたとすれば、被害者たる滝川総長自身も記憶に残つている筈であると考えられるにも拘らず、同総長自身は右本館建物西北角附近における被告人伊多波の暴行については、前記のように後から背中を殴られたことを述べているのみであつて、西村証人の供述するような被害を受けた事実については何等述べていないのである。もつとも原審第二五回公判における滝川証人の証言中には被告人伊多波も被告人三上と同様前肩を突いたり後から突いたり、そういうことは何回もあつた旨供述している部分がある(二二九六丁)けれども、その供述は何等具体性がなく、西村証人の供述する前記の事実に符合する被害事実を述べたものとは到底認められない。しかも前示証人岸野美一の「自分の右側にいた学生が総長の背中を手で殴つたのを見た当時その附近では伊多波を見かけなかつた」旨の証言(七五二丁)等に徴すれば右西村証人のいう長身やせ型の学生というのが果して被告人伊多波であつたかどうかも若干疑があるのみならず、当時学生達は直接滝川総長に交渉しようとして守衛等周囲の者の抵抗を排除して同総長に近づこうと懸命になつていたのであるから、被告人伊多波が滝川総長の肩を手で押し、或いはその肩に手をかけた事実があつたとしても、当時の混乱した状況下では総長に近づこうとしてその勢が余つて総長の肩に手が当つたということも考えられ、果して暴行といい得るほど強いものであつたかどうか、又果して暴行の故意があつたものかどうかも甚だ疑わしいといわなければならない。結局被告人伊多波が滝川総長の肩をはげしく一回突いて暴行したとの事実はこれを確認するに足る証拠がない。従つて原判決が被告人伊多波の滝川総長に対する傷害の公訴事実につき無罪を言渡したのは相当であつて事実誤認はなく論旨は理由がない。

検察官の控訴趣意中被告人三上隆の滝川総長の肋骨々折に対する傷害罪の責任についての事実誤認の論旨について。

論旨は、原判決は被告人三上の暴行により総長に肋骨々折を生ぜしめたことを認めるべき何等の証拠がないから、これまた同被告人の責に帰することはできないと判示しているが、前示の通り同傷害は被告人両名を含む学生一〇数名の共同暴行によるものと認定すべきものであるから、同傷害が仮に被告人三上の直接暴行に基因するものではないとしても、同被告人も同傷害に対する罪責を負うべきことは当然であるというのである。

しかしながら、総べての証拠を検討するも本件騒ぎの際における被告人両名を含む多数学生の共同暴行が認められないことは先に説示した通りであり、被告人三上が滝川総長に所論の傷害を与えた事実を認めるに足る証拠のないことは原判決の言う通りであるから、論旨は理由がない。

よつて検察官の量刑不当の論旨につき判断するまでもなく、弁護人の各控訴は理由があるから、刑事訴訟法第三八二条第三九七条第一項により原判決中被告人両名の有罪部分を破棄すべく原判決中の無罪の部分に対する検察官の控訴はすべて理由がないから同法第三九六条により棄却すべく、同法第四〇〇条但書により右破棄した部分につき当裁判所は更に判決する。

(罪となるべき事実)

被告人三上隆は、当時京都大学文学部哲学科四回生で、同大学構内で開催予定の全国学生哲学会第一回総会の準備委員会の責任者及び京都大学々生の自治組織である同学会の総務部執行委員であつたところ、昭和三〇年六月一八日の同大学創立記念日に際し、同学会は、同大学側の主催する記念行事の外、同学会主催の園遊会、講演会等を開催しようとして同大学当局と折衝を重ねたが、大学当局は前年の昭和二九年の秋の記念祭に学内において不法集会事件が発生したことに鑑み、学外者が入り込むことを避ける方針の下に、園遊会、全国学生哲学会の開催を許可せず、これがため学生側から強く要求して、昭和三〇年五月二三日被告人両名その他の同学会の代表約一〇名が同大学総長応接室で総長滝川幸辰と会見した外、同年六月三日にも午後一時頃から約一時間同学会の代表者達が同総長と会い、種々陳情したが、大学当局の方針は変らなかつた。

右同日午後二時過ぎ頃同大学本館東階段下附近で右学生代表等から総長との会見結果について報告を受けた数十名の学生等は総長の回答に強い不満を抱き、今一度総長に面談しようといつて容易にその場を立去らなかつたが、その翌日アテネの法学者会議に出席のため、京都を出発することになつていた滝川総長(当時六四才)は、その準備のため、同大学本館建物北側にある法経本館の法学部研究室に行くべく、同大学秘書室主任西村源次(当時三四才)と共に、同大学本館二階東端の総長室を出て、学生達を避けるため、二階の大ホールを通つて西階段から階下に降り、同本館西北出口を出た。ところが滝川総長は帰宅するものと考えた被告人両名その他の学生達は、その帰宅に先立つて繰返して総長と会見して前示記念祭行事について折衝をなすべく、総長を護る警備員達の周囲に殺到したため、総長は法経本館に行くことができず、警備員・職員及び学生達一団の中でもまれながら、同所広場の大学本館側の植込みに沿つて西方に移動し、同本館西北角を南に曲つて、同大学の職員に抱えられるようにして同本館西出入口から同本館に入り、同日午後二時半過ぎ頃総長室に引返すのやむなきに至つたのであるが、その間総長警備員職員等の周囲に集つた学生は二〇乃至三〇人に達し、次第に混乱状態となつたが、その混乱中総長が大学本館西北角附近に来た際被告人三上はその身体を総長の身体の右前にはげしく一回ぶつつけて同総長に暴行したものである。

(証拠の種目)≪省略≫

(法令の適用)

被告人三上に対し刑法第二〇八条、罰金等臨時措置法第二条第三条(罰金刑選択)、刑法第一八条を適用して同被告人を罰金三、〇〇〇円に処し、主文掲記の通り労役場留置の言渡をなすべく、本件事案は巷間の不良青年の暴行とは同視できないものであり、大学当局の哲学インターゼミナール等を許可しない方針に対する学生の抗議がその度を越したものと考えられるものであつて、滝川総長に対する暴行そのものは計画的であつたとは到底考えられず、その場の勢いに駆られた偶発的なものと認められ犯行の動機、態様から見て検察官のいうように悪質なものとは考えられず、当裁判所が親しく観察した同被告人の性格、態度、将来性その他諸般の情状上、同被告人に対しては、右罰金刑の執行を猶予するのがむしろ相当であると認められるから、刑法第二五条第一項により同被告人に対し主文の通りその刑の執行猶予を言渡すものである。

本件公訴事実中、被告人両名は、昭和三〇年六月三日午後滝川総長が学生等に阻止されたため京都大学本館二階総長室に引返したところ、数十名の学生と共に同建物東階段下に集合し、総長に対し執拗に面会を求めて容易に解散せず、同日午後九時頃総長より九時二〇分までに解散しない場合は不法集会と認め適当な措置をとる旨示達、退去要求をされるや右数十名の学生と共謀の上、直ちに同大学職員達の制止を排し、同階段を階上に押し上つて総長室前廊下に坐り込み、大学側及び総長の要請により出動し、その意向を受けた京都市川端警察署長和田庄顕、同署警部森武夫等の数次にわたる退去要求を受けながら同日午後九時二〇分より午後一一時頃まで故なく同建物を退去しなかたとの点については前に説示の通り犯罪の証明がないから刑事訴訟法第三三六条第四〇四条により被告人両名に対し無罪の言渡をする。

なお公訴事実中被告人三上が昭和三〇年六月三日午後二時過ぎ頃京都大学本館と法経第四教室の中間空地で数十名の学生と共同して滝川総長を取り囲み、同総長に対し交々その身体を手で突き、引張り、又は之に体当りし或は蹴る等の暴行を加え、この際総長に対し被告人伊多波は肩を激しく手で突き、被告人三上は数回体当りをした上、足でその右脚を蹴り、被告人等の右暴行の結果総長に全治約二ヶ月を要する右第一〇、第一一、第一二肋骨々折及び全治三週間を要する右下腿部打撲症を加えたとの点については、前判示の通り、同公訴事実中被告人三上の同総長に対し身体をはげしく一回ぶつつけた暴行の事実は認められるけれども、その余の傷害、暴行等の事実については、その証明がないが、同公訴事実は判示暴行と一罪として起訴せられたものと認められるから、その証明のない部分につき、被告人三上に対しては特に無罪の言渡をしない。

よつて原審及び当審における訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項但書により被告人三上に負担させないこととして主文の通り判決する。

(裁判長裁判官 奥戸新三 裁判官 塩田宇三郎 竹沢喜代治)

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